阿瀬井 香織 〜鏡のブログ〜

命には終わりがある。魂は時空を超えて受け継いでいる。今の私は過去の私の希望。阿瀬井香織、もう一つのブログ。

私の青春時代② ~養護学校編~

中学校時代、教室に近づく程呼吸が出来なくなった。

怖くて逃げだすと呼吸は戻った。

なんで前に進めないのか分からない。

教室から離れた場所なら大丈夫だった。

学校に行けないだけじゃなく、レストランもダメ、人の多い所もダメ。

そこに行くと呼吸が出来ない、ソワソワ落ち着かない、逃げ場所を探してしまう、これを誰にも理解されない、永遠に抜け出せない穴に閉じ込められたような気持だった。

 

自分に甘いとか、すぐ逃げるとか言われ続けて来た。

『理解しようとせんくせに。』

心をどんどん閉ざしてしまい、人と話さない私でした。

私の苦しみを理解してくれる人がいないと、世間に背を向けていました。

 

そして、高校受験の為に、養護学校に入るという目的の為、

病院の先生に、自分で買った本のこの症状があるからこの病気では?と申告すると、

本当だね!と診断書を書いてくれた。

(先生知らんかったの?)

今までは病名なしで宙ぶらりんだったから、病名をもらってホッとした。

 

診断書さえあれば入学する権利があるのでここはクリア。

後は教室に入れるかが問題。

見学に行ったら入れた!

ちょっとしんどかったけど、入れた!

よし、ここなら行ける。

 

そして転入して、私の学年は同い年のRと私だけ。

クラスメイト2人。

あとは小学生がほとんどで、足の不自由な子、言語の不自由な子、知的障害の子、発達障害の子、私の知らない病気の子が沢山いました。

 

あんまりそういう知識がないだけに、何をしてあげれるかも分からない状態。

なので、いつも通り接する無理解な私でした。

 

授業は生徒2人の為、分からない所はその場ですぐ聞けるという授業でした。

これは通常級にはないメリットで、みんながいると聞けない事も、聞きたいだけ聞けます。

なので1~3年までの5教科は、1年で終わりました。

私のスピードで出来たので、大嫌いなダラダラした授業じゃないのが一番嬉しかった。

Rは、知的も少し入ってたのか、ゆっくりだったけど、2人を同時進行出来るのも養護学校の良さでした。

 

授業中、天気ええなぁ~~~とボーっとしてると、

『あ~…、い~…、う~…』と凄く苦しそうな声で言語の練習をしてる声が聞こえてきた。

 

涙が溢れました。

何で泣くんだろうか。

苦しそうに聞こえるけど、一生懸命前を向いてるような。

声を出す時、苦しそうに顔をいっぱい曲げてくちゃくちゃにしながら出すんですよ。

その一生懸命さ、真っ直ぐさ、困難でも気にせず進む心が苦しかった。

苦しい?

何が苦しいんだ私。

 

 

 

自分が幸せであった事に気づいてしまった事が苦しかった。

自分ではこんなに辛いと思う人生だったのに、自分とその子達の人生を交換したいかと問うと、嫌だと思った。

私は今の自分を選んでしまった。

授業中、恵まれた自分が後ろめたかった。

その子達を馬鹿にしたような気持ちになった。

別に思ってはないけど、そういう事にもなるなと感じた。

恥ずかしかった。

とても若かった。

 

休み時間、中庭でボーっとしてると、各教室からみんなが集まってくる。

1人でいるはずの私の周りにいつもみんなが集まってくる。

みんな私が怖くないの?

キツイ顔面なのに。

しかも上級生過ぎるのに。

分かってないだけ?

 

たまに授業中息苦しくなることもあって、それを上手く言えない私に、先生が『ピアノ弾いてくる?感情出せるかもよ。』と言ってくれた。

弾くのもしんどい状況で、もしかしたら楽になるかもしれない、と何でもやってみたくなった。

ていうか、授業中弾いてもいいんだ。

 

弾くと、また各教室からみんなが集まってきた。

先生まで。

終わって振り返るとめっちゃ人がいた!

え!?

 

『みんなが聴きたいって言うから私たちもきたわ~。』という先生。

『あれ弾いて~!』と言うみんな。

希望通り弾くと喜ばれた。

 

トラップ一家物語(ハウス劇場)みたいで感動した。

大好きなマリア先生みたいな自分が信じられなかった。

この学校にいると、今までみたいな余計な事を考えず、自分のままでいられた。

ホッケーとか何かを競う事も、手加減なくやってしまった。

悔しそうなのに手加減できない大人げない最上級生…。

どーしても譲れない。勝たせる事は出来ない。

とても小さい私でした。

 

ある休み時間、小4の女の子Mちゃんと中庭を歩いていると、隣にMちゃんがいない。

あれ?と後ろを見ると、こけている。

大丈夫~?と近づくと、倒れてうつむいたまま立たない。

え?どーした?立たれへんのか?と聞いても声も出せない。

せんせーーーーーーーーーーーー!!!と中庭から大声で叫ぶと、先生が出て来てくれた。

 

バタバタした中で、救急車が来て、どいて!と押されながらも動けなかった。

何も出来なかった。

 

私のせいだ……。

 

Mちゃんは次の日から学校に来なかった。

長期入院だった。

 

ますます自分を責めた。

もっとゆっくり歩いていれば良かった…。

そしたら異変に気付けたのに…。

私が早いから急いでこけたんだ…。

 

Mちゃん担当の先生が、私に声をかけてきた。

『Mちゃんから伝言もらったよ。香織ちゃんは悪くないよって言っといてって。きっと気にしてると思うから。ちょっとした事で骨が折れる病気やから気にせんといてって。』

 

泣きました。

あんなに辛い中で、私の心配をしてくれてたんだ。

なのに私は、上級生なのに下級生の事を全然考えていなかった。

なんて意地悪なんだろう。

いっつも杖をついて歩いているのに、ゆっくり歩けなかった私の愚かさ。

自分の事ばっかり考えてる意地汚い私。

みんなが私を怒らない事も辛かった。

許されていて、優しくされていた。

私はこんなに悪いのに、優しくされている事に居心地が悪かった。

 

Mちゃんに謝罪の手紙を書きました。

電話もさせてもらいました。

Mちゃんは電話をただ喜んでくれていた。

全然怒ってなかった。

 

それからは、周りの動きを見るようなりました。

他の人はどんな様子か。

物質的に不自由さがないか。

気を付ければ見えるものが沢山あった。

先回りして出来る事が増えた。

 

Rがてんかん発作になる前は、視線が合わずラリッたようになるので、事前に先生に伝える事が出来た。

Rは発作になって30秒放置すると死んでしまうらしい。

絶対死なせないと思った。

 

でもRは死んでしまった。

卒業してから。

辛いと電話をかけてきたのに、仕事に追われていた私は親身になってあげられなかった。

Rには私しかいなかったのに。

そして自殺してしまいました。

死ぬほど辛かったRの気持ちを考えられなかった自分に、罪悪感が湧きました。

 

 

知的障害と体の障害で、歩く事も上手くない女の子がみんなに嫌われていた。

なんで嫌いなのか聞くと、『嘘つきだから。』

 

障害ある子でも嘘ってつくの?そんな器用な事出来るの?と意外だった。

でも自分の目で確かめるまでは信じられない。

その子と話してみたくなった。

失礼ですが、ただの好奇心です。

 

話してみると、見た目は障害を持っているのに、中身は普通の人。

何このギャップ!意外過ぎ!

どんな嘘をつくのか楽しみにしていたけど全く出てこない。

聞くまで終われない。

やっとそれっぽいものが出た。

嘘つけるんや!!!

という感動にも似た気持ちが沸いた。

なんて普通なんだ!!!これは大発見!!!

障害持ってると、つい可愛そうに思う心にさせられるけど、あんたほんま普通やな!

勘違いしとったわ~!ごめんな~!

 

逆に失礼な自分を恥じた。

図に乗るなよ私!

世の中ほんま知らん事ばっか。

世界は広かった。

 

 

担任の先生は40前くらいに見えたけど、あの時は自分が若過ぎて老けて見えただけで、今思えば30代後半?(あんまり変わってない)

これまで男子が嫌いだった私は、先生は大人で落ち着いているから話すことが出来た。

国語の先生でオタク気質の為、質問すると色んな事を話してくれた。

私の好奇心が満たされていく。

一緒にいて楽しい気持ちから、中3で初恋をしました。(遅め)

青春を取り戻すかのような恋です。笑

学校が更に楽しくなりました。

 

そして先生は結婚するらしく、わりと早くその初恋は終わりました。

結婚すると聞いて、急に男に見えだして気持ち悪くなってしまった。←

あんなになついていたのに、喋りかけられるのもキモくなってしまいました。 

好きと嫌いは相対性ですね。(五行講座参照)

 

3年分の勉強を終え、よく1年でここまでやったと褒めてもらいました。

自分でも信じられない。

夢中でやってきたけど、本気出せばなんだって出来る気がした。

高校は私立の普通科音楽コース。

推薦で入りました。

実技は誰よりも自信があったので、そこはピアノの先生から高校の先生へ、上手い事話してもらっていて、音楽の才能は信用されていました。

 

そして合格!*(^o^)/*

人生の普通科へ行ける!*(^o^)/*

特殊コースは終わり!*(^o^)/*

 

と思えたけど、そうではなかった。

でも、高校生に無事なれるという事だけで幸せでした。

 

養護学校にいると、テキストでは出来ない勉強が沢山出来ました。

人生で本当に大切な事を教えてもらえた。

私は誰よりも豊かな学生生活を送ったのかもしれない。

 

 

だから自分の子供を支援級に入れたかった。

私の意志は固かった。

ゆうきにはこうやってのんび生きて欲しかった。

あの辛さは私しか分かってあげられない。

普通級も体験させて、本人と話合って決めたので、満足しています。

社会的には劣等感のある学歴、養護学校

ゆうき君の将来どーすんの?ってたまに言われる。

そんなもん知らんよ。

でも今はこれがベスト。

なーんも考えないまま、目の前の問題をこなしてい行くだけの作業です。

 

この問題はいつか上手く行くようになってるんだろうと信じています。

根拠はなーし。

 

 

 

 

 

次回、高校編へ続く…

 

 

それではまた~🖖🏻

私の青春時代

夏休みが明け、福井県の学校へ。

制服がまだ届いてなくて、1人だけ私服は目立つから、制服が届くまで休んでいた。

 

大阪人は、転校生ってだけで休み時間取り合いのように転校生の所へ行き、質問攻めになる。

転校生と遊びたくて、みんなが遊ぶ約束をする。

とにかく人気者。

きっと私もそうなるんだと思っていた休み時間。

 

シ―――――――――ン・・・。

だーーーれも来ん。

 

というか、休み時間みんなわりと静か。

ガチャついた雰囲気はそんなになく、大人びた空間にどうしていいか分からなかった。

 

私はただ座っているだけ。

移動教室だというのに、誰も教えてくれない。

聞いてないけど、転校生にはどんどん声かけるってもんじゃぁないのかい?

まあいいよ。更に帰りたいよ。

 

勉強もみんな凄くて、ほとんどの人がそろばんを習っている。

今何級?とか、習い事の話が多い。

福井ではそろばんが流行ってるのか。

友達が出来るわけなく、寂しい生活が何か月か続いた。

 

休みの日に電話がなるようになった。

隣のクラスの男子からだ。

『キャッチボールせん?』

『は?嫌。』

 クラスの男子。

『遊ぼ。』

『え、嫌。』

 

女子からの誘いが来ない。

クラスの女子は真面目という印象。

とてもじゃないけど私とは違い過ぎる。

無理だ。

場違いという感覚を痛いほど味わう。

休みの日も家にいる事が多くなった。

 

すっかり忘れていたけど、小2から母親の付き合っていた男が居候するようになり、

母親不在の時に暴力を受けるようになっていた。

ご飯は私がいると邪魔だからと、自分の部屋で食べるようになり、2年生~毎日1人で食べていた。

 

何か変だとは思ったけど、

特に拒むわけでもなくそのまま何年もそのままでいた。

 

福井に来てもそのままだったけど、2階建ての為、1階と2階で生活は完全に分かれていた。

 

その家には、若い衆と呼ばれる高校中退者からおっさん達数名が同居していて、母親は、《ねえさん》と呼ばれていた。

付き合っている男は《にいさん》やら《親っさん》やら呼ばれていて、誰もがヘコヘコしていた。

私は《お嬢》と呼ばれていた。

 

私の洗濯物は、洗濯機から勝手に出されたり、こんなパンツ履いてるねんなと笑われたり、お風呂も勝手に開けられたりと、プライベートのない家だった。

けっこーな頻度で母親がどやされている。

母親がこっそり泣いているのを見て、声はかけられなかったけど、可愛そうで可愛そうで私の方が涙が止まらなかった。

 

小6の10月、妹が生まれた。

そいつの子だ。

再婚はしていないので、籍は入れていない。

妹はすごく大事にされていた。

私は家で嫌われていたので、触るな、とか、ばい菌が移るとか、同じ部屋すら入れてもらえなかった。

妹と母親と男は、3人の部屋で生活していて、鍵がかかっていた。

私は用があればノックして入口で対応された。

中には入れてもらえない。

 

寂しかった。

なんで親なのにこんなひどい事するんだろうと思っていた。

私は広い部屋、電話、テレビ、ベット、全て揃った部屋を与えられ、小学生のわりに贅沢な部屋ではあった。

こんなものいらなかった。

一緒にいて欲しかった。

 

6年生の秋、塾で急に気分が悪くなった。

頭に血が上って気持ち悪くなり、トイレに行った。

何も出ない。でも顔が熱い。熱くて苦しい。

洗面所の水で顔を濡らした。

激しい動悸がするままそこに座っていた。

先生が見にきてくれたけど、上手く説明出来なかった。

それから毎日訳の分からない症状は続いた。

 

学校に行っても、家にいても、定期的に息が出来なくなる。

動悸が激しくなり、苦しさでえづく。

怖くて怖くて仕方なかった。

そのままの状態で楽しくない生活は過ぎ、卒業式。

卒業式すら体調が悪くて保健室で寝ていた。

 

なんでこうなったんだろう。

今頃大阪のみんなは感動的な卒業式をしているのに、私はそんな大切な日さえ普通に過ごす事が許されないのか。

この人生が嫌になった。

 

中学校入学。

なんの希望もないまま奴隷のように通うものの、やっぱり体がしんどい。

母親が夜のバイトに行くようになり、妹のミルクは私があげていた。

数時間置きに目覚ましをかけて飲ませ、ゲップが出るまで抱いているという生活を、夜だけのはずが、母親が昼もバイトを始めたので、学校を休んでやっていた。

中学校入学から夏休みになる頃、体は、もっとおかしくなっていた。

 

体が絶対変だ。

母親に体が変だから病院に連れて行って欲しいと言っても、

『風邪やろ。寝とけば治る。』

と言って連れて行ってもらえなかった。

そのまま何週間も過ぎた。

熱も出てきて、歩く事も出来ない。

四つん這いになりながら母親の元へ行き、涙を流しながら、

お願い…ほんまに苦しいねん…病院連れてって…

と頼んだが、大袈裟と言って連れて行ってもらえなかった。

 

どうやったら信じてもらえるんだ…。

息が出来ないし、ずっと気持ち悪いし、熱もずっと下がらない。

今日は特別気持ち悪いな…と思いながらいつの間にか寝ていた。

 

夜中急に目が覚めて血を吐いた。

なにこれ怖い。

量は少ないものの、恐怖で動悸が止まらない。

立って起き上がる力もない。

助けを呼べない。大きな声も出ない。

恐怖の中、朝が来るまで待っていた。

 

朝、母親が部屋から出てきた時に、出来る限りの声で呼んだ。

『血吐いてん!』

これならさすがに信じてくれると思った。

『は?吐いたらええやん。』

と言って下に行ってしまった。

 

嘘やろ……。

もうあかんわ。多分私死ぬわ。

 

泣けてきた。

こんな終わり方ってある?

この若さで病死?

何をしに生まれた?

生まれた意味あんの?

死んだらちょっとは泣いてくれる?

いても邪魔もの扱いで、愛してもらっているようにも思えない。

ご飯も作ってもらえなくなっていた。

食べられなくて、ほとんど残していたから。

残り物を食べて、毎日過ごしていた。

 

死んだらお母さん楽になるかな…。

はぁ……。

 

こんなん嫌!もー嫌!

どーせ死ぬんやったら言いたい事思いっきし言うとかなスッキリ死なれへんわ!

という事で、四つん這いで呼吸のタイミングをみながら、かなりの時間をかけて下へ行き、母親にすがり付いて泣きながら言った。

 

お願い!病院連れてって!苦しい!息ができひんねん!お願い!

 

咳き込みながら、えづきながら、断られても服を掴んで離さなかった。

 

『あんた変なんちゃう!頭おかしいわ!』

そーや。おかしいねん。

頭も体も全部おかしいねん!

 

『分かった!だから離して!うっとーしい!』

絶対やな!絶対行くな!?行けへんかもしれんから、このまま用意すんの見るまで離されへん!

『しつこい子やわ!』

 

やっと病院に行けた。

おじいちゃん先生の個人病院…。

 

違う。これじゃない。

こういう展開になるとは…。

こうなったら仕方ない。

出来る限りの苦しさを表現した。

母親が病院に連れてってくれなかった事も話した。

ここで風邪やと言われたら、ほらみい!とちゃんとした検査をしてもらえなくなる。

お願い先生、ちゃんと診て…。

 

必死だった。

死にたくなかったもん。

 

紹介状を書いてくれて、やっと大きい病院へ行けた。

待ち時間座っていることが出来ないので、横になっていた。

だらしないと言われて起こそうとされるけど、起きる力がない。

こいつに何を話してもダメだ。

体力を溜める方に集中しよう。

呼ばれたら行かないといけないから。

 

そしてやっと呼ばれてまずは問診。

どういう流れか、点滴をする事になり、手の甲に針を刺される時、

やっと助かるんだ・・と安心し、気を失ってしまった。

 

目が覚めると臨時のベットで寝ていて、母親が隣にいた。

『私倒れたん?』

『うん。』

『心配せんかったん?』

『別に。』

『こんなに苦しいのに、全然分かってくれへんかってんで?』

と言いながら悲しくて泣けてきた。

『お母さんやのにひどいわ。』

『しゃーないやん。そんなん知らんかってんから。』

こいつほんま…喋るんじゃなかったわ…。

 

診察質へ入り、即入院と言われ、

『嘘ですよね?大した事ないですよね?』と笑いながら聞く母親。

肺炎ですよ。このまま入院してもらいます。

『……はい。』

嫌なんかい。

 

やっと治る希望が出てきた。

小6の秋からこの症状に悩まされていたから、やっと元気に戻れるんだ。

うれしい。

夏休みは全て入院生活だった。

 

病院だというのに、いっこーに良くならない。

1日何度も発作みたいなものに襲われて、息が出来ない何時間が過ぎる。

体重もみるみる減ってガリガリになっていた。

 

誰に何を言っても通じない。

看護婦さんも先生も、この苦しさを分かろうともしてくれない。

子供の言う事に真剣に耳を貸す大人はいなかった。

そしてこのまま退院の日が告げられた。

 

『待って、まだ喉の所になんか詰まって苦しいんです。検査してください。』

 

しても何にも見つからず、それはここじゃなく、心療内科がある病院で診てもらうよう、紹介状をもらった。

 

またかよ……。

 

この世の中はなんて生きづらいんだ。

病院って病気治せる訳じゃないのか。

治せるものって限られてるんだ。

ちっとも良くならないのに退院。

そしてまた新しい病院で診察。入院。退院。

 

何やってんだろうな。

外はこんなに晴れてるのに。

私って普通に生きる事さえ出来ないのか。

これからの人生どうなるんだろう。

 

親とも分かり合えず、先生にも分かってもらえず、友達もおらず、

美味しくご飯を食べる事も出来ないし、義務教育すら行ってない。

 

中学生って恋とかするって漫画で読んだのに、そういう幸せみたいなものが、私の人生になさ過ぎる。

悲しい。

このまま一生治らないのかな…。

 

そんな中、発作はひどくなっていた。

常に点滴をしていて、トイレに行くにも立ちくらみで牛歩でしか進めない。

発作が起きたら、筋肉注射でお尻や腕に鎮静剤を打ってもらう毎日。

何錠飲んでたか分からない程の薬。

本当におかしかった。全部おかしかった。

 

過呼吸の発作が特にひどく、1日何度も何度も繰り返していた。

大人が誰もいない家で、1人でヒーヒーのたうち回っていた。

薬も規定外飲んだ。

病院に電話して苦しいと言ったら、救急車を呼ぼうか?と言われた。

 

『お母さんが怒ると思うからいいです。』

と断った。

『でも今そんなに苦しいんでしょう!』

『そうやけど…運ばれたって知ったら、怒ってこれから病院に連れて行ってもらえんかも知れんから…このまま電話だけしてて欲しい…。』と頼んで、ハァハァ発作のまま意識が飛んでいた。呼ばれた声で気がついたら大丈夫そうだったから電話を切った。

 

寝る前に、このまま死んで明日生きてないかもしれない。という怖さもあって、

毎晩今日まで生きてきた感謝を、思いつく限りの神様、人、動物にして寝ていた。

 

今日もなんとか生きれました。ありがとうございました。

出来れば明日も生きていたい。

悪いことはもうしませんから、どうか明日も生きれますように。

祈りながら毎晩泣いていた。

 

退院しても体調は変わらず、ずっと家にいた。学校へは行っていない。

出席日数分は保健室や空いてる教室でただ座っていた。

みんなの声が楽しそうだった。

声だけ聴いていた。

私がここにいる事を誰も知らないんだろうな。

はぁ・・。

 

こんな人生にしたあいつを許せなかった。

あの男さえいなければ、あのまま幸せだった。

こいつさえいなくなれば、母親の気持ちは私には戻るんじゃないか。

 

恨んでいた。

殺したかった。

台所から包丁を持って、昼寝しているあいつを殺そうとした。

寝る前の祈りの宣言はここでは消えていた。

ドアを開けて部屋に入ると足がつまづいて音を立ててしまった。

 

バレた。

 

包丁を見て『なんやそれ』と起き上がり、すぐ取られてしまった。

相手は本物のヤクザだ。

若い衆は指がない人ばかり。

『やってみぃや』と私に先に手を挙げた。

力で勝てる訳なかった。

『私を殺してよ!!!!』

と言ったけど、髪の毛を引っ張られたまま引きづり回された。

 

あいつはショックで家出した。

母親は私のせいだと責めた。

悲しむ母親が可哀想で、あいつに謝って、帰って来て下さいと手紙で頼んだ。

私がいなくなれば良かったんだと思った。

 

中学2年の真ん中辺りで、このままでは高校へ行けないという問題が出た。

もう行かなくていいと思った。

生きてるだけで必死だったから。

私に高校なんて幸せそうな響き、どーせ無理なんだと思った。

望むと叶わない時に絶望して泣き崩れる。

もーいーや。どーでもいい。

 

諦めた私にありえない話が来た。

養護学校は、ほぼマンツーマンで授業受けれるらしい。

 

なんだって?

マンツーマンなら教室に入る時、過呼吸にもなりにくいし、なっても誰もいないなら迷惑かけない。

しかも勉強を自分のペースで教えてくれるなら、取り返しがつくかもしれない。

行きたい。

 

また希望を抱いてしまった。

でもこれが最後。

もう私は死んだも同然。

失うものなんかない。

失敗してもいい。

やり直したい!

 

でも入るには条件があるらしい。

診断書がないといけない。

入る理由がいる。

 

病院で頭がどれだけ狂っているかアピールした。

変なものが見えるとか、感情的になるとか、発狂しそうな私を演出しつつ訴えた。

情緒不安定、自律神経失調症、その称号で養護学校に入る条件はクリアした。

 

中学校3年から、養護学校に通うことになった。

ここに来て、あり得ないけど完璧なシナリオだった。

 

 

 

 

続く。

私の幼少時代①

3歳。両親が離婚。

この頃から極貧生活が始まった。

 

家で傘を作る母親を凄いと感動し、保育園で自慢したら母親に怒られた。

内職だから恥ずかしいって。

その時はビンボーだと知らなかった。

 

保育園の転園が3回。

友達が出来たと思えばまた転園。

新しい保育園では、必ず意地悪な洗礼があった。

 

それで泣く事はなかった。

無反応だった。

嫌だとは思ってた。

顔や態度に出ることはなかった。

 

大人には可愛げがないと言われるし、友達も特にいない。

好いてくれる子もいたけど、

あーそーぼ『いや。』

と断るのも早かった。

 

家では一人っ子でいつも一人。

その頃の母親は男の人と遊んでいて、かまってもらうことはあまりなかった。

よくある家庭環境だった。

 

小学校に上がり、私は乱暴になった。

今でいうストレスかな。

運動場の遊具で並んでる人を、お構いなしに割り込む、

鉄棒から落ちた友達を大笑いして怒られる、

同級生の男との喧嘩でバットで相手の顔面を殴る、ベランダからおちょくってきた奴の家まで走って行き、そこの親を無視して上がり、怒鳴りに行く、ボコボコにどつきまくるという、とにかく乱暴的な人だった。

 

それでも頭は良かった。

変に勉強が出来たし、芸術も賞とか取れるし、運動神経も良かった。

誰も私に文句は言わなかった。

 

小1~2年の間、ほとんどシカトされていた。

こんなにヤバいんだから、そりゃあそう。

何かいい所なかったかな~と思い出すと、みんなが嫌ってるクラスメイトと一緒にいた。

その子がどんだけ普通でどんだけ臭くないか(臭いといじめられていた)、会話する人に話していた。

あと、優しかった。

思いやりは強かったから、迷子の子の母親を探したり、それで自分が迷子になったりという部分もあった。

 

小3で、なぜか友達が急に増えた。

実は前から喋りたかってん。とみんな言っていた。

信じられなかった。

なんだよ。

みんな私の事めっちゃ好きなんだね。

 

その当時、交換日記が流行っていて、他のクラスの子も含めて7冊頼まれていた。

私って親友やんな?と言葉で確かめる人も続出。

人気者だった。

 

小5の夏休み、急に引っ越す事になった。

母親の彼氏が引っ越すからだ。

なんでそんな理由で、と思った。

いちおー嫌だと言ってはみたけど、どーせ言っても変わらんだろうと思っていた。

 

みんなには黙っていた。

お別れ会をされるのは嫌だった。

泣き崩れてしまうから…。

そして立ち直れなくなるのが分かった。

だってみんなが大好きだったから。

みんなと離れるなんて、絶対嫌だったから。

みんなの前で泣くなんて、かっちょ悪くて見せられなかった。

 

1番仲良くしていた友達1人だけ話す事にして、教室のカーテンが縛ってある中でカミングアウトした。

 

ビックリしてた。

かおりちゃがいなくなったら誰と仲良くすればいいん…⁉︎と泣いてくれた。

私も泣いた。

 

先生に、『もうお別れしたし、夏休み終わったらみんなに引っ越した事言うといてな。』と言い、

『ほんまにそれでええんか?』と心配そうに聞いてくれる先生に、泣くのを堪えて、『ええねん。』と言って帰った。

 

夏休みは兵庫のおばあちゃんちで過ごしていた。

夏休みが終わる頃、縁もゆかりもない福井県に引っ越していた。

 

田んぼしかない、コンビニもない所に来て、タイムスリップしたように思えた。

 

もう本当にみんなに会えないんだと思うと涙が止まらなかった。

寂しかった。

でももう帰れない。

みんなに会いたい。

会いたくて苦しい。

どうしようもない胸のモヤモヤをただ耐えるしかできなくて、

離れたくなかった…離れたくなかった…と小さい声で言いながら泣いた。

 

そしてここから波乱万丈の人生が始まった。

 

 

 

 

 

続く。

本音

霊性ってなんのために磨いてるんだろう。

それを使って何がしたいんだろう。

今それやってるんだろうか。

凄いって何?

エゴだから何?

ブロックだから何?

 

何やってるんだろう。

自分らしさってどれ?

私は何がしたいのかな。

 

あの人はこうして欲しいだろうから叶えてあげるって言うなら、なんで他の願いは叶えないの?そこだけ忠実にするのはなんだ?

 

私は口も悪いし態度も悪いけど、結局優しい。

いい人ぶってごめんなさい。

 

もう好かれたいという願いもないし、嫌われたくないとも思わない。

 

ちゃんと嫌っていいよ。

私もそうするから。

無理しないでいいよ。

考えるだけで苦しかったでしょう。

思い出したくもなかったでしょう。

もう休んでください。

 

無理させてごめん私。

しんどいって言ってたのを無視し続けてごめんなさい。

 

願いを叶えてくれてありがとう。

私も願いを叶えます。

全てが叶っていました。

 

 

 

よし♪

こっちはエゴとかそのままでも載せるから。

 

 

私はまだまだ一般人!←